天国ってなんなんだろうなって話
こんばんは。
最近筋トレの成果が出てきて前より疲れにくくなりました…成果が出ると人間やる気を増すものですね。しかし肝心の悩みは未だ解決せずです 続けよう…
さて今回の話ですが、前置きとして言っておきたいことが。
今回僕がする話に一切の、ヒンドゥー教、その他の宗教的な説教の意図及び宗教への攻撃的な意思はないことをここに示します。
また、僕自身は大僧正でも神でもなんでもなく、宗教に関する教養がないこともここに書いておきます。どうぞよしなに。
いつだってとんでもないエゴイストで、しがないオタクのハンパな与太話です。一応浄土真宗に身を置くものとしてはとんでもない話をしますがね…
さて、皆さんは死んだら天国に行けると思っていますか?(開幕ぶっぱ)
僕はこう思うんです。
そもそも天国ってなんだ?と。
今日び20かそこらの僕みたいな子供でも「この世界は地獄である」なんてのは分かります。一番怖いのは間違いなく人間ですし、そんな生き物が跳梁跋扈するこの地獄の往来、生きているだけで褒めて褒められてもらわなくちゃ釣り合いとれないくらいには。
ではもしも死んでこの世界とおさらばできたとする。やったぜ!!!!!!!!!!
ここからが面白いのは、割とどんな宗教でも『自らが死んでからも思考能力があるまま、人間の形であって思考ができる事を前提としている』んです。流石宗教と言うべきなのか…?
思考は全て脳で行われている筈です。僕自身が博識かつ究極的なリアリストで、「科学的、生物学的にそんなのはありえない!」と叫んでいるわけではなく、ただ現実的に考えて軽く「それはわからん」と思っているだけです。
精神体という概念が存在します(≒アストラル体)が、ここでは割愛。エーテル体やらなにやらの話がしたいわけじゃないので…(この時点で宗教的な意味での僕への意見は意義を為さず、「こうだったとき、あなたはどうなる?どう思う?」という話に切り替わります。)
さてそんな状態で行く場所。そこはどんな場所だ?
自分以外のイキモノはいるのか?
いたとして、どんなイキモノだ?
そんな場所で暮らせるか?
その場所の、名前はなんだ?
もし思考能力が無い状態で行く場所であったならばそこは天国ではないだろうか。
何も見えない。考えなくて良い。何もしなくて良い。真の意味で何もできない。ただそこにいるだけ。そんなイキモノしかいない。何も感じることはない。そこら中みな同じく「何もしていない」。それでいい。
ああ、それはまさしく”あなた”にとっての天国だろう。
しかし思考能力がある此方から見ればどうだろうか。
それは地獄と呼ぶのではないだろうか?
生きていない、脳が動いていないのであればそれは常識的に考えて死体である。というのを前提とする。
そこも間違いなく地獄だと思う。非情に広い空間であっても今まで死んで来た人間や動物を放り込んでいったとしてそれはもうとんでもないことになっている筈である。そこにいる者すべて感覚的に無であり何も感じ得ないと言えるのが幸いか?
可視化できたとすればそこはどんな地獄だろう。
もう一度問う。どんな地獄だろう?
また、ぎっちりいるイメージでなくだだっ広い場所にぽつんと”ソレ”だけがいるような状態だと仮定してみる。
おそらく本人は天国のままであろう。本人からすると何も状況は変わっていない。
しかし他人から見るとまたもそれはまさしく地獄なのではと。一人ぽつんといるのみでなにもない。孤独であるイメージがまず湧いてくる。それが視えるとすると…それもある種の地獄ではないのか?と思ってしまう。
仮定と想像が多分に入った話をする。
一応知識として持っているものとして浄土真宗の教えに「人間は一度死んだら第二の生が先祖の待つ場所で始まる 」というものがある。
なるほど確かに救いなのかもしれないが、一概にそうとも言えない。
もしも生前の行いによって先祖が恐怖の対象になってしまっていた場合(しかもそういう者であるほど篤い信仰心を持っており、教え通りの『場所』にいることがあるように思える。)、先祖が作るローカルな法に”また”縛られる。自分としてはそんな恐怖の対象が待つ場所へと行きたいと思うだろうか?それも地獄ではないのか?もし恐怖でなくなっていた場合、それは先祖本人、自分自身と言えるのか?
「あなたは誰?私は何者?」になりそうで怖い。またそういう疑問が出てこなかった場合…ああカオスだ。頭がおかしくなりそうだ。
そんな人物がにこにこと待っている場所。こじつけになってしまっている気がしますが地獄じゃねーのと。それを享受しろ?冗談じゃない…
仮定なのでね。許してください…
僕が言いたいのは、天国なんてそんなほわほわとした理想の場所で永遠に過ごす事は人間として無理があるだろうという事。
思考能力がある限り地獄は続くのではないかという事。ヒトはヒトである限り地獄の住人として思考を巡らせ生き生きとどうにかこうにか生きていくしかないのだと僕は思う。
何度生を繰り返そうとそれまでは等しく地獄であり、思考を真の意味で辞める時が本当の天国ではないのか。だがそれは「無」になる事と同義であり、「無」は寂しすぎる。それは死んでいるのともまた、同義ではないのかと言いたいって事。
はたしてそれはこちらからすると地獄なのか 天国なのか。
もう一度聞きます。
皆さんは死ぬと天国に逝けると思っていますか?
天国ってなんでしょうね。意外と地獄の中に天国はあるものなのかも。
ひと仕事のあとのビール然り。(酒を飲むのは罪であることがあるが)
うまい食事然り。(殺生を含んでおり無論罪であることがあるが)
気持ちがいい温泉然り。(なんの罪もなさそう 平和 サイコー)
結局は抽象的な、宗教的な意味での天国の話は僕にとっちゃ本題だしばっちこいなんですが、そんな事なんかじゃなく、あなたにとっての天国とは?と聞きたいだけなのかも。「あーわかる!」「あれも天国だよなぁ!」「それはお前だけの天国だろ!?」って友達と酒飲みながら話がしたいだけなのかも。
まったく実に僕という人間は寂しがり屋ですねぇ。
今回はこのあたりで。
また次回。